【考察 バケモノの子】チコの正体は?

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結論から書くと、チコは蓮の「イマジナリーフレンド」です。

イマジナリーフレンドとは?

イマジナリーフレンドとは、心理学の用語で文字通り、「架空の友達」を指します。
他者との交流に不慣れな子供が多く経験します。
自分の思い通りにふるまってくれる他者であり、一緒に遊んだり、気持ちを共感したり、ときにアドバイスをくれたりする存在です。
多くは大人になると消えてしまいます。
イマジナリーフレンドは、人の形をとることもあれば動物やキャラクター、持っているぬいぐるみが話し出すこともあります。

ネット上の説明にも下記の記述が見られます。

子どもの友人として、遊び相手になってくれたり、本人の都合の良い振る舞いや、自身の思いを代弁してアドバイスを行ったりもします。


出典 【イマジナリーフレンドとは】大人も作れる? 子どもに見られる空想上の友達について紹介

殆どの場合は実際に現実の対人関係を学ぶ事で幼少期の時点で自然消滅する

出典 ピクシブ百科事典

チコがイマジナリーフレンドであることを示すシーンが作品には多くあります。
以下でそれを書いていきます。

チコはイマジナリーフレンドである

蓮がチコに話しかける3つのシーン

蓮がチコに話しかけるのは下記の三回です。

①冒頭でパンを盗んで路地裏で食べるシーン
②熊徹に出会う直前、自転車の間にうずくまっているシーン
③チコの真似をしていて、「熊徹の動きを真似る」という啓示を得るシーン

以下、これらのシーンを参考にしながらチコがイマジナリーフレンドであることを考察します。

理由① チコは気持ちを共有できる存在

①のシーンで蓮はチコと初めて出会います。セリフは下記です。

「お前も、どっかから逃げてきたのか」
「俺も独りぼっちだよ」

バケモノの子 蓮

どちらも蓮がチコと境遇を重ねていることが分かるセリフです。

「独りぼっち」である自分の寂しさを、同じ境遇であるチコと共有しようとしたのです。

また、チコがこの時初めて登場したことから、チコ誕生のトリガーが「蓮の寂しさ」であることが分かります。
蓮は寂しさからチコという友達を必要として、生み出したのです。
これはイマジナリーフレンドの存在意義である「気持ちを共感する」と一致しています。

さたに、②のシーンでは、うずくまる蓮の髪の中からチコが出てきて、心配そうに九太を見つめます。
そんなチコに対して蓮が「大丈夫だよ」と声をかけます。
この部分もうずくまって動けない蓮の寂しさ、悲しみにチコが共感しています。心配は、他者の立場に立ち、共感しないとできないものです。

また、蓮はこのとき他人から心配させることを求めていて、チコはそれを具現化しているとも言えます。
この点はイマジナリーフレンドの特徴として引用した「本人の都合の良い振る舞い」をするという特徴と合致しています。

理由② チコはアドバイスをくれる存在

③のシーンでは、チコの真似をしているときに「熊徹を真似ることで剣の技術が向上する」という啓示を得ます。
これは引用した「自身の思いを代弁してアドバイスを行ったりもします」というイマジナリーフレンドの特徴とも一致しています。
蓮が無意識に感じていた「真似をすればいいのではないか?」という思い付きを、チコ(実際に教えたのは母親のイメージでしたが)が代弁してくれたと考えられます。

また、母親のイメージが教えてはいますが、蓮は直後にチコに向かって
「今のお前?」
と言います。
このセリフは省略部分を書き足せば、「今のお前がやったのか?」となります。

なぜなら、九太はこのシーンの前の四人の賢者との出会いの際に、「幻覚使いの賢者」と出会っているからです。
九太はバケモノが幻覚を使えることを認識しており、チコが母親の幻覚を見せたのではないかと思ったのです。
言い換えると、チコが幻覚を使って、蓮に「真似る」という工夫をアドバイスした、と言えます。
九太は自分が無意識の領域で思いついた「真似る」という工夫を、チコが作り出した(という体の)母親のイメージに教えてもらうという形で、意識の領域まで持ってきたのです。

理由③ チコは大人になったら消えてしまう存在

チコは作品全体を通して画面に現れます。
しかし、蓮がチコに話しかけるのは冒頭で示した3回だけなのです。
その3回は蓮が9歳のとき、しかも「真似」によって強くなるきっかけをつかむ前までです。
その後、蓮は一度もチコに話しかけていないのです。
言い換えると、17歳になってから、いやさらにその前、強くなり始めたあとは次郎丸を打ち負かして仲良くなった後(=現実の友達を獲得した後)から、蓮はチコに一度も話しかけていません。

17歳になってから画面に登場するチコは視聴者にだけ見える存在であって、蓮には見えていないのではないでしょうか。

本作ではしばしば、視聴者に向けて語られるメタ的なセリフが出てきます。
最初の始まり方も、渋天街やバケモノの世界の説明が視聴者に向けてされます。

また、最後のシーンでも、机に向かって勉強する蓮に対し「よかったね、蓮」と声をかける母親や、笑う熊徹のシーンが挿入されます。これらのシーンは蓮が感知していないシーンです。
つまり、蓮の視点では見えない・聞こえないシーンが描かれ得ると言えるのです。

このように、17歳になってから一度もチコに話しかけていない点、そして視聴者だけに提供されるメタ的な描写があることから、チコは画面内にはいますが、17歳になった蓮にはもう見えていないのではないかと推察できます。

理由④ チコは蓮にしか見えていない存在

蓮はチコを肩に乗せた状態でしばしば他の人と会話をします。
しかし、その誰一人としてチコのことに触れないのです。
このことから、チコは蓮にしか見えていない架空の存在だと考えられます。

まとめ


本考察ではチコの正体はイマジナリーフレンドであるという主張をしました。
根拠は下記の四つです。
①チコは寂しさへの「共感」をする
②チコは「アドバイスをくれる」
③チコは大人になったら消えてしまう
④チコは蓮にしか見えていない

最後に チコはお母さんなのか?

チコの正体がお母さんであるかというと、私は違うと思います。
混同する原因は、お母さんが真似をしなさいというアドバイスをくれるシーンで、蓮がチコに対し「今のお前?」と言うからだと思います。

このセリフを「今のお母さんは、君なのか?」と解釈すると、チコ=お母さんとなってしまいます。
しかし、蓮がチコをお母さんだと思っていたら「お前」という口調は使わないでしょう。

また、本文にも書きましたが、蓮は賢者との対話で幻覚が存在することを認識しており、チコに対して「今のお前(がやったの)?」と問いかける方が自然であると考えます。
チコはあくまで、「お母さん的なイマジナリーフレンド」に留まるでしょう。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。