こんにちは!
今回は夏目漱石『坊っちゃん』より名言を5つ選んで紹介します!
坊ちゃんのあらすじ
坊ちゃんのあらすじは、東京の下町で育った23歳の青年「坊っちゃん」が、大学を出て教師となり、愛媛県松山市(※諸説あり)の高校に赴任する話です。
名前の通り、「坊ちゃん」の性格は純朴で曲がったことが大嫌い、おまけに喧嘩っ早いです。
赴任先ではその性格が災いし、教師同士の派閥争いに変に巻き込まれまれたり、生徒からからかわれたりします。
教師の派閥は二つあり、一つは世渡り上手で弁が立つが卑怯者の教頭・赤シャツ派、もう一つはそれに対抗する山嵐派に分かれています。
最後には、山嵐と共に赤シャツを成敗し、教師を辞めて東京に戻ります。
それでは、名言を見ていきましょう!
名言1
考えてみると世間の大部分の人はわるくなることを奨励しているように思う。わるくならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。たまに正直な純粋な人を見ると、坊っちゃんだの小僧だのとなんくせをつけて軽蔑する。それじゃ小学校や中学校で嘘をつくな、正直にしろと倫理の先生が教えないほうがいい。いっそ思い切って学校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授するほうが、世のためにも当人のためにもなるだろう。
出典:夏目漱石『坊っちゃん』 (5章)
学校教育と現実社会の間の矛盾を突いているところが痛快ですね。
小中学校時代の「純粋」な価値観を引きずって、それが社会に通じないことに憤る点では、まさに名前の通り、子どものままの「坊っちゃん」です。
とはいえ、今風に言えば坊っちゃんは社会人一年目で23歳の青年です。
学生時代と社会人との間のギャップに悩むのは当たり前な気もします。
また、このセリフは表面上は小中の教え方を批判していますが、本質は、嘘にまみれ、騙し合いをしている大人社会を間接的に否定しています。
社会人になりたての青年が、学生時代に教わった価値観を持ち出して、大人社会を批判する形です。
大人社会に疲れた人たちに対して、大人社会を批判することで救いを与えているようにもみえます。
また、このセリフは、大人になった自分から見た、子供のころへのノスタルジーを満たしてくれる気がします。
「子供の頃はよかったな、人生がシンプルだったな…」
そんな過去を懐かしむ気持ちに寄り添ってくれます。
社会と学校教育のギャップ
私は社会人になって数年経ちますが、上の引用のように学校教育と社会の実態で噛み合わない部分があると感じる部分もあります。
例えばですが、社会に出ると「目的、課題、目標」を強く意識させられます。
目標は、部活やらテストやらで掲げた気がしますが、目的は?課題は?というのを、あまり問われなかった気がします。
少なくとも、中学や高校でExcelやらPowerPointやらを使って、「目的」とか「課題」とかを考えて書く機会は少なかったように思います。
社会人になってからこんなに頻繁に考えるなら、学生時代から鍛えさせればいいのにな、と感じます。
名言2
東西相応じておれをばかにする気だな、とは思ったがさてどうしていいかわからない。
正直に白状してしまうが、おれは勇気のあるわりあいに知恵が足りない。こんな時にはどうしていいかさっぱりわからない。わからないけれども、けっして負けるつもりはない。このままにすましてはおれの顔にかかわる。江戸っ子はいくじがないと言われるのは残念だ。宿直をして鼻垂れ小僧にからかわれて、手のつけようがなくって、しかたがないから泣き寝入りにしたと思われちゃ一生の名折れだ。これでも元は旗本だ。
(中略)
ただ知恵のないところが惜しいだけだ。どうしていいのかわからないのが困るだけだ。困ったって負けるものか。正直だから、どうしていいかわからないんだ。
世の中に正直が勝たないで、ほかに勝つものがあるか、考えてみろ。今夜中に勝てなければ、あした勝つ。あした勝てなければ、あさって勝つ。あさって勝てなければ、下宿から弁当を取り寄せて勝つまでここにいる。出典:夏目漱石『坊っちゃん』 (4章)
赴任したての高校の寮で、宿直当番になった坊ちゃん。
しかし、生徒たちにからかわれてしまいます。
布団にバッタを沢山詰め込まれたり、大勢の生徒が部屋でドタバタと足を踏み鳴らすなどです。
そこで闘いを決心した時の坊ちゃんのセリフです。
自身の名誉、プライドのために、徹底的に戦う姿勢がかっこいいですね。
また、新人教師である坊っちゃんに対し、相手は数十名の生徒。
人数で圧倒的に不利な上に、作中で「こんなやつを教えると思うときみが悪くなった」と書かれるように、自分よりも体格のいい生徒も混ざっています。
圧倒的な不利な状況において、自身のプライドを守りたいというその一点のために、生死をかけた覚悟で向かっていく。
なんでこういうシーンってかっこいいのでしょうね。
私自身が人生と闘い、日々必死に生きているために(大げさ)、坊っちゃんの状況に共感して応援したくなるのかもしれません。
そういう意味では、困難に立ち向かう全ての人の目に、圧倒的不利な状況に立ち向かう坊っちゃんはかっこよく映るかもしれません。
坊っちゃんを応援したくなる理由
本作には坊っちゃんを応援したくなる仕組みがあります。
坊っちゃんと、闘いの相手(赤シャツや生徒たち)を比べてみると、
坊っちゃんは正直なのに対し、相手は嘘つきです。
坊っちゃんは口下手なのに対し、相手は弁が立ちます。
坊っちゃんは頭が回らないのに対し、相手は狡猾です。
このように坊っちゃんは、「正直者の弱者」として書かれ、相手は「嘘つきの強者」として描かれるのです。
これは坊っちゃんを応援したくなります笑
名言3
おれを見るたびにこいつはどうせろくなものにはならないと、親父が言った。乱暴で乱暴で行く先が案じられると母が言った。なるほどろくなものにならない。ご覧の通りの始末である。行く先が案じられたのも無理はない。ただ懲役に行かないで生きているばかりである。
出典:夏目漱石『坊っちゃん』 (1章)
幼い頃に暴れん坊だった自分と両親の関係についての記述です。
こういう、自分を実体よりも低く捉えるセリフが、なんとなくオシャレで好きです。
坊っちゃんは実際は、刑務所に入らないどころか、理系の学校を出て、教職員を経て東京の鉄道会社に就職し、エンジニアとして働いています。
学も職もあるのに「ただ刑務所入らないばかりである」とは、随分と自分を卑下したセリフであるように思えます。
威張らず自分を落として話すところが、好感が持てるのかもしれません。
名言4
世の中はいかさま師ばかりで、お互いに乗せっこをしているのかもしれない。いやになった。
出典:夏目漱石『坊っちゃん』 (7章)
これも、本音と建前の入り乱れる大人社会に疲れた人には刺さるんじゃないでしょうか。
作品を通して言えることですが、「坊っちゃん」という純粋な人間のフィルターを通して世界を見ることで、いかに世界が純粋でないか、欺瞞に満ち溢れているかが暴かれます。
太宰治も『人間失格』の中で、似たようなことを書いていました。
互いにあざむき合って、しかもいずれも不思議に何の傷もつかず、あざむき合っている事にさえ気がついていないみたいな、実にあざやかな、それこそ清く明るくほがらかな不信の例が、人間の生活に充満しているように思われます。
出典:太宰治『人間失格』 (はしがき)
主人公・葉蔵が、父親の講演会の帰り道、父親の知り合いが、表向きは父親を褒めておきながら裏で陰口を言うのを聞いた時の言葉です。
常に本心で話して、お互いに完全に利他的な考えや行動を取り合える関係というのは、あまりに理想的にすぎる気はします。
ですが、それに近い人間関係が身近にあったなら、それはすごく幸せで恵まれたことですね。
名言5
議論のいい人が善人とはきまらない。やりこめられる方が悪人とはかぎらない。表向きは赤シャツのほうが重々もっともだが、表向きがいくらりっぱだって、腹の中までほれさせるわけにはゆかない。金や威力や理屈で人間の心が買えるものなら、高利貸でも巡査でも大学教授でもいちばん人に好かれなくてはならない。中学の教頭ぐらいな論法でおれの心がどう動くものか。人間は好ききらいで働くものだ。論法で働くものじゃない。
出典:夏目漱石『坊っちゃん』 (8章)
私がどちらかと言うと弁が立たないタイプのためか、このセリフは結構好きですね。
また、このセリフでは、弁が立つ/立たないの軸以外にも、多くの軸に触れています。
金持ち/貧乏
権威がある/ない
理屈/感情
そしてこれらの軸でどれだけ「ある」ほうに振れていたとしても、それだけでは「人間の心」は買えないと語ります。
言い換えると、「心」は、金でも権威でも理屈でも買えないものであり、最も高価なものである、とも言えそうです。
この考え方は、金や権威に目が眩みそうなときとか、羨ましいときに自分の心を整えるのに有効そうですね。
「自分の心」が金や権威よりも価値があると捉えると、自分の心の価値が認められて、自尊心が高まる気もしました。
これと似たフレーズを一つ参照しておきます。
「10億円もらえる代わりに明日死ぬとしたら、お前は10億円をもらうか?」
この答えは、基本的にはノーだと思います。
金がいくらあっても、死んでしまったら元も子もないな、と。
言い換えると、自分の明日は、少なくとも10億円以上の価値があると言えます。
そう考えると、なんだか生きていることの有り難さを再認識できます。
明石屋さんまさんも言っていました、「生きてるだけで、儲けもん」と。
まとめ
今回は、夏目漱石『坊っちゃん』より名言5つについて書きました!
「大きなものに立ち向かっていく小さな者」という構図で語られる名言が多く、励まされますね。
それでは、また次回。