皆さんこんにちは。
今回は「漱石と日本の近代」(石原千秋・著, 新潮選書, 2017.5)について、感想を書いてみたいと思います!
かなり内容が濃いので本記事では、「序章 漱石的主人公の誕生」のみについての感想を書きます。
要約(ざっくり)
まずは、 「序章 漱石的主人公の誕生」の要約になります。
最初にざっくりとした流れをまとめます。
本著の著者、石原氏は小説における主人公像として、小説的主人公=考えるだけの主人公を定義します。
そして、この小説的主人公に、漱石の作品の主人公が当てはまるのです。
小説的主人公が生まれたのは下記の流れです。
明治民法により長男に暇な時間が発生し、そこへもって高等教育で「知」を得ることで、不安が生まれます。
不安だから女を求めます。
しかし当時女は謎に満ちていたので、女について考え続ける必要がありました。
これにより、考える主人公が生まれました。
以上はざっくりの流れなので、以下にもう少し詳しい要約を記載します!
要約(細かめ)
石原氏は、小説の主人公には2種類あると言います。
物語的主人公と小説的主人公です。
物語的主人公の特徴としては、下記があります。
- 1 ある領域から別の領域へ移動する
- 2 成功し、異性を獲得する
例えば、朝ドラのヒロインはこれによく当てはまり、少女の領域から大人の女性への領域への移動・進化・成長が描かれます。
一方で小説的主人の特徴は、何かについて考え続けるだけ、苦悩するだけで、移動・進化・成長しない主人公です。
例えば、『こころ』の先生はKや奥さんについて考え、悩み続けていたため、こちらに当てはまります。
また、東大卒のエリートでありながら、働かずに親の財産で生き続けている点も、移動や成長をしない点で、小説的主人公に当てはまります。
この小説的主人公は、漱石的主人公が始まりです。
なぜ小説的主人公、すなわち漱石的主人公が誕生したのか、その背景について述べます。
漱石的主人公は、相続から始まる点、東大卒でありながら働かない点が特徴です。
さらに「自己とは何か」という問に悩んだり、世界に自分の居場所がないことに悩んでいます。
彼らが考えるようになった大きな理由は何か?
それは、不安と暇です。
不安は、高等教育による知の不安によるものです。頭が良くなりすぎて色んなことを考えすぎるようになり、ノイローゼになったのです。
暇の方は、明治憲法規定された遺産相続により、親から遺産を受け継いだ長男は働かなくても済み、莫大な時間が与えられたことに起因します。
そして、暇で不安な彼らは、不安がゆえに自分に安定を与えてくれる存在を欲します。それは何か?
それは、女でした。
不安な結果自分を愛して肯定してくれる女を求めたのです。
しかし、当時の男にとって女というものは全く理解出来ない存在でした。
進化論が発表されて、男と女が同一の人間である、ということが、彼らにとっては驚きでした。
そのくらい女というものは男とは全く違う生き物のように、謎の生命体として捉えられていたのです。
その結果、不安だから女が必要だが、その女は全く理解出来ないので、女について考え続ける必要がありました。
これにより、考え続ける主人公が生まれたというわけです。
感想
面白かった点
主人公のタイプを構造化して2種類に分類するのは新鮮で、とても面白かったです。
また、漱石の作品が描かれた時代背景=「明治民法が制定された時代」を踏まえた作品解説が行われており、作品への理解が深まりました。
さらに、進化論や資本主義と漱石作品の関連など、大きな視野で作品を捉えられている点も新たな視点でした。
気になった点
教育を受けた結果の不安「暇が苦悩を生み出す」のは納得なのですが、「教育を受けた結果不安になる」点は、あまりピンと来なかった点です。
本書では、高等教育を受けたことで主人公が「不安」になったと書かれています。
しかし、高等教育を受けた結果不安になったのか、元々の気質や育ってきた環境的な要因で不安になったのかは、切り分けが必要かなと思いました。
例えば、「こころ」の先生の「不安」は、信頼していた叔父に裏切られたため、また自分が親友を追い詰めてしまったために感じている「不安」であって、高等教育は「不安」の直接の理由ではないように読めます。
また、本書では漱石的主人公が、高等教育を受けたことにより苦悩や不安を抱えてたと書かれています。
例えば、「知識人は教育を受けた結果「自己」とは何かという答えのない問いに悩まされていた」などです。
こちらの例の部分はあまりピンと来なかったです。
「「自己」とは何か?」という問いは、教育を受けた受けていないに関わらず、青年から大人になる課程である程度誰もが考えることだと思うからです。
高等教育の結果の苦悩とは?
高等教育の結果の苦悩があるとしたら、それは例えば『私の個人主義』(夏目漱石、講談社学術文庫、1978.8)に記載の下記の内容ではないでしょうか。
日本の開花は皮相上滑りの開花である〜(中略)~しかしそれが悪いからおよしなさいというのではない。事実やむを得ない、涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならない〜(中略)~我々の開花が機械的に変化を余儀なくされるためにただ上皮を滑って行き、また滑るまいと踏ん張るために神経衰弱となるとすれば、どうも日本人は気の毒と言わんか哀れと言わんか、まことに言語道断の窮状に陥ったものであります
出典:『私の個人主義』(夏目漱石、講談社学術文庫、1978.8、p63)
高等教育を受けた結果の不安として、国家の置かれた状況を俯瞰して理解できるからこその苦しみはあるかもしれないと感じました。
「苦悩」というのは、自己矛盾から生まれる苦しみだと思うのですが、まさにこの一文は、日本文明開花に対して、頭では無理があると分かっていて辞めたいところだが、辞めるわけにはいかない、という矛盾を孕んでいます。
このような苦悩は、高等教育を受けた結果の不安、と通じる部分があるかもしれません。
高等教育を受けた結果、国の置かれた状況をよく理解しており、それが故、国の行く末を不安視したり、国民が無理を通そうとしている苦しさが理解できるからです。
もしも教育を受けておらず、国の状況を全く知らない状態でしたら、このような苦しみは生まれなさそうです。
時代が生み出した不安
本書では、漱石的主人公たちは高等教育によって不安になったとあります。
しかし、漱石が生きた時代の生み出した不安感としては高等教育を受けたから、という理由もあるのかもれませんが、私は、時代背景に要因があるのではと考えました。
時代背景の理由は二つあります。一つは、急速な近代化によって生活が大きく変わり、その急速な生活の変化によって精神が不安定になっている、という理由です。
二つ目は、近代化に伴い欧米から輸入された「個人」「自我」という概念が不安を呼び起こしたためです。
「個人」「自我」という概念が、人と人とを分断し「寂しさ」を生み出したからです。
二つ目の方については、漱石作品の中のセリフからも読み取ることが出来ます。
私はしまいにKが私のようにたった一人で寂しくってしかたがなくなった結果、急に処決したのではなかろうかと疑い出しました -先生-
出典:『こころ』(夏目漱石、角川文庫、昭和26年) 53章
自由と独立と己とにみちた現代に生きる我々は、その犠牲としてみんなこの寂しみを味わわなくてはならないでしょう。 -先生-
出典:『こころ』(夏目漱石、角川文庫、昭和26年) 14章
漱石が生きた時代が生み出した「不安」としては、高等教育による「自己とは何か?」という問いよりは、この「寂しさ」による不安の方が、私はしっくりきました。
「個人」とか「自我」が生み出した、人々の分断による不安感です。
「俺が俺が」と誰もが「我」を主張するようになった世界、また「個人の権利」の名のもと集団的価値観の統一が崩壊していった世界にあって、漱石的主人公は寂しさを感じたのではないでしょうか。
以上、まとめますと、不安は高等教育を受けたことで生まれたというよりは、時代背景によって生まれたと考える方が腑に落ちました。
時代背景とは、「急速な近代化による生活環境変化」と「「個人」という概念の輸入による寂しさ」です。
まとめ
今回は「漱石と日本の近代」(石原千秋・著, 新潮選書, 2017.5)の「 序章 漱石的主人公の誕生 」について、要約と感想文を書いてみました。
漱石の生きた時代は、江戸時代から明治時代への大転換期であり、激動の時代でした。
時代が大きく動くときには、人々の心にも不安の影が膨らむのが世の常。
そういう意味では漱石の作品は、「先の見えない時代」と評される現代(2025年執筆時点)においても人々から多くの共感を集める作品なのだと思います。
それでは、また次回。