映画『国宝』の考察 喜久雄は父の敵(かたき)を討てたか

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はじめに

こんにちは!
今回は、映画『国宝』(2025年、李相日監督)について、考察を書いていきます!

テーマは「主人公・花井喜久雄(はない きくお)は、父の敵を討てたか?」です!

結論は、父の敵を討てたのだと思います。

以降で、そう言える理由を見ていきます。

※本記事はネタバレを含みます。

あらすじ

『国宝』は、暴力団組長の息子・立花喜久雄が、15歳で歌舞伎の世界に入って芸を極め、50歳頃にして人間国宝になるまでを描きます。

理由① 芸を極めたから

代理父が敵討ちと芸を結びつけた

そもそも筆者がなぜ仇を討つことに着目したかですが、
それは、養父・花井半二郎が主人公・喜久雄を引き取る時に、

「お前の武器は、ナイフでも銃でもない。芸だ。芸で父親の仇を取れ。」

という内容のセリフを言ったからです。

このセリフにより、主人公にとって、父の敵を討つことと、芸を極めることが結びつけられたのです。

※余談ですが、ナイフと銃は実際に主人公と仲間が父の仇を打とうとするシーンで手にしているもので、養父・花井半次郎はその光景を連想させるような言い回しをしていますね。

人間国宝に上り詰めた主人公

1-1で書いたように、主人公・喜久雄は、芸を極めることが、すなわち父の敵討ちであるという命題を得ました。

そして、最終的に人間国宝にまで上り詰めました。

人間国宝になるほどに芸を極めたのですから、父の敵討は成功した、と言ってよいでしょう。

理由② 父が果たせなかった「見せること」を代わりに果たしたから

父の果たせなかったことを果たすということ

父の敵を討つ方法として、父が果たせなかったことを自分が果たすことがあるのではと思います。

例えば野球なら、父が出場できなかった甲子園に出るとか、ボクシングなら、父が取れなかったタイトルを取るとか。

この「父が果たせなかったことを果たす」という観点でも、喜久雄は父の敵討を出来たと言えます。

父の死に様、父が果たせなかったこと

それで言うと、今回主人公の父の死に際に着目すると、以下のセリフが出てきます。

喜久雄、よう見とけ

主人公の幼年期編、一番序盤のシーンでのセリフです。

暴力団組長の父・立花権五郎が宴会の最中、他の組がカチコミにやってきます。
不意打ちに対し父は奮闘し、敵の子分を庭の隅に追いやります。

へたり込み怯える敵、父はあと一撃で完全に敵を倒せる、というところで主人公が目に入ります。

父は、さっと着物をはだけ、背中の刺青を主人公に見せながら、

喜久雄、よう見とけ」と言い、最後の一撃を振り下ろそうとします。

しかし、その刹那に、後ろから父は敵の銃弾に倒れてしまうのです。

父はきっと、暴力団として生きる自分の生き様、生きる覚悟のようなものを、息子に見せたかったのでしょう。

しかし、その「見せる」という願いは叶わず、命を落とすこととなりました。

父の代わりに「見せる」を果たす

主人公は歌舞伎の芸を極めました。

歌舞伎は、観客に芸を「見せる」ものです。

人間国宝まで上り詰めた主人公は、「見せる」ことにおいて最上クラスに到達したといえ、

父が果たせなかった「見せる」ということを達成出来たのではないでしょうか。

父が果たせなかったことを果たした」意味で、父の仇を討ったと言えると思います。

※余談ですが、「見る」というのは本作のキーワードで他のシーンにも出てきます。

映画の終盤、スキャンダルにより歌舞伎界を追われた主人公。

恋人の吾妻彰子(森七菜・役)とドサ周り中、非常識な市民から「このオカマ野郎!」と暴言・暴行を受けて落ち込んだ夜です。

ホテルの屋上で浴びるほど酒を飲み、千鳥足の主人公が、彰子(あきこ)から「どこ見てんのよ」と問い詰められ、「どこ見てたんやろなぁ」と答えます。

父が、「よう見とけ」と言ったのに対し「どこ見てたんやろなぁ」は微妙にズレながら呼応していて、

主人公の始まりと今を緩く結んでいます。

理由③ 表社会で価値ある「人間国宝」になったから

父が死んでしまった理由は、裏社会の住人だったため、というのが一つの理由です。

なぜなら、暴力団に属していなければ、抗争で命を落とすことはなかったからです。

とすると、そもそも父が裏社会の10人でなければ、暴力団組長になることもなく、命を落とさなかったと言えます。

暴力団になってしまう理由は色々考えられますが、それが仮に表社会でのつまずきであるのだとしたら、

表社会によって、父は命を落とした、と言えなくもないです。

そう考えるなら、父の敵は表社会になります。

主人公は表社会の中で価値あるとされる歌舞伎において、トップといえる「人間国宝」の地位を手に入れました。

表社会の中で「国宝」とされるまで、自身の価値を高めたのです。

父を死に追い詰めた表社会の中で、最高クラスの価値を身につけたと言う点で、父の敵討ちを果たしたのではないかと思います。

まとめ

いかがだったでしょうか。

今回は、主人公が父の敵を討てたのか?という問いについて考えました。

主人公にとって、父の敵討ちは、すなわち芸を極めることでした。

父の代わりである里親・は、父の敵討打ちと芸を極めることを結びつけ、父の敵討として芸を極めろと課題を出しました。

人間国宝にまで上り詰めた主人公は、見事に代理父・花井半次郎の課題を達成し、父の敵を討ったと言えるでしょう。

この記事を書いた人

都内私立大学を卒業→大学院進学→メーカーに就職←イマココ、のアラサーブロガー。高校3年生の現代文の授業で、『舞姫』(森鴎外)の解説を受けてから文学にハマり、以降文学書を読み漁る。好きな作家は村上春樹、夏目漱石、太宰治。
いろんな作品の考察や感想を書いていきます。たまに書評も。

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